まほろばホームページより抜粋転載しています。 | |||||||
「万佳(ワンジャ)食品有限公司」は、 1994年3月に設立された興安盟・烏蘭浩特(ウランホト)市の中心部に在る。 市街面積は 23平方km、人口は約22万人。 吉林省と外モンゴルに隣接する。 戦前満州の隣県で日本人が多く居留していた。 農業が主産業で、山菜・薬草の宝庫である。 万佳食品の宇社長始め、トウ副経理との再会を歓び、会社従業員一同の心温まる盛大なる歓迎を受けた。 そこで、目の当たりに見た中国の懐の深さ、鹿野社長の広遠なる志に、驚嘆することになる。 |
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ここウランホト市の「万佳食品有限公司」は、工場敷地1万坪、大モンゴルの自然の天恵と日本から伝統的且つ先進的醗酵技術と設備を導入し、最新式の管理システムを用いた夢の会社だった。そこでは味噌、醤油、酢、腐乳、漬物、乳酒等7品種30種類の品目を製造していた。 創業当時、鹿野社長は日本での資本参加を呼びかけ、味噌・醤油・米屋などの事業参加があり、日本独資の会社を創った。それが「天外天」であった。その天外天と味噌のマルマン社、当地の興安盟東方経貿の3社が共同出資して農産物栽培、貯蔵、生産加工、研究開発、貿易が一体化した「万佳食品」の日中合弁会社を作ったのだ。 天外天が万佳の親会社として、鹿野社長が会長として就任した。一億円の総資本金で、内蒙古の外国企業第一号となった。そして、そこで造った商品は100%日本側が買い取ることから始めた。ほとんどの合弁会社が撤退する中、将来も崩れない日中の確固とした信頼互助関係を築き上げた。その先見性と手腕、大陸の要人をも呑み込む鹿野社長の人徳と器量の大きさに驚きを禁じえない。 |
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共存共栄の街造りに、日中は合体したのだ。 2,500名を案内したが、当初電気もなく、ホテルも無い状況で、日本からウランホトまで2日がかりだった。ここ2・3年で、戦後日本が経済復興でジャンプした以上に急成長した。北京オリンピック以来急速にインフラも整って来た。山と農地と畜産、そして手付かずの地下資源の宝庫による経済発展は、今後さらに目を見張るであろう。当時、蒙牛社の株一万円が今では1,000倍、農家の現金収入二千円/年間が、100倍にもなった。 その牽引役の一端を、万佳食品が担ったのだ。 |
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訪ねた工場は、2006年7月に新設されたばかりだ。
'94年、か細くも日本への味噌輸出からスタートした当時、糀屋の柴田氏、マルコ醸造の小木曽さんらが、ここで自ら日本から持ち込んだ麹で味噌造りから手がけたのだった。 そして、足踏みした経営沈滞を脱するため、国から有能な宇海龍氏を要請して社長に迎え、人材教育、財務管理を徹底して事業を多角化することで業績が急伸した。 このワン先生から今回色々とご指導を戴いた。 更に、日本から各社の若い人材が現地に赴いて生産指導や日本企業への営業に奔走した。この万佳食品の生みの親ともいうべき天外天は、他に岩塩・天然重曹のブームで業績が鰻登りになり、それと呼応するように万佳食品は年々躍進し、食品文化発信拠点として世界に視野が広がっている。 |
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中国緑色食品AA級認定書とJAS・JONA等の 有機認定証明書。 それらのプレートが会社 前に掲げられている。 |
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「有機栽培のみそ」という漠然としたイメージで、日本の工場を想いながら案内された。 いわば、日本の認証は甘く、日本の有機JASでは輸出出来ず、世界に通用しないのだ。 |
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ここの衛生管理、品質管理のシステム造りは将来を見込んで、周到な計画性の下に、実施されたものだ。そして、次に通された穀物の選別作業。なんとこれを手作業で行なっていたのだ。「どうして、機械化しないのか?」と問うと「日本の最新式の選別器を使ったが、それでもクズが完全に取り除けない。それで人海作戦で選別している」と。60人以上の女工さんが、黙々と作業に励む。味噌や醤油の製品物は穀類の形がなくなるので、微少のクズが入っていても全く問題はないと考えるが、どうしてそこまでやるのだろう、と思ってしまう。ところが、そこが決定的に違うのだ。微動だに忽せにしない、その徹底的な商品造りへの姿勢が社会的信用、世界的商品へと押し上げてゆくと考えている。 本物造りとはそうい、眼に見えない所を誠実に行う事なのだ。日本の味噌製造の蔵元一行が視察に来て、「ここまで、やるか!」という感嘆の声を上げたという。食品の中国問題で騒然としている裏側には、こうした対極に、何処にも真似出来ない徹底した製品が生まれている国でもあるのだ。 |
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原材料の相違、仕込みの違い、熟成の長短、それぞれの特有の味噌が一箇所で出来ると言うシステムを構築した姿に舌を巻かざるを得なかった。
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そして、このシステムが、醤油蔵にも反映され、漬物や他の商品にも応用されている。
そこに、日本から入った有機製品の切り口が中国大陸で、今後燎原の火の如く広がって行くだろう。 |
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